【霊的世界77】 亡くなった人がくしゃみをすると、供養する僧侶が風邪を引くのか ~霊能力僧侶のお話~

先日、私はS先生(日蓮宗・ご住職・男性)に、こうお聞きしてみた、「死者の思いがS先生の身体に現れた後、S先生ご自身が体調を崩されるようなことは、今までになかったのでしょうか?」と。以前に、ここで少しお話した例の質問である。

亡くなった人(霊)がくしゃみをすると、その方を供養する僧侶が風邪を引くのか・・・といった意味合いのことである。

例えば、癌でこの世を去った人がいたとする。強い痛み止めの薬があっても、それを使うまでに、殆どの人が、精神的にも肉体的にも、痛みを経験することが多い。

そういった痛みに加え、死への不安や恐怖、あるいは心の奥底に潜んだ、ありとあらゆる恨み辛みまでもが、供養を行うとS先生の身体の中に現れるのだ。信じられないかもしれないが、相談として亡くなったその方の話を聞くのではなく、亡くなったその方の意識や感情、心情など、それこそ痛みの記憶までもが、S先生の身体の中に入って来るのだ。これがまた苦しい!

S先生は決して苦しいとはおっしゃらない。でも、どっからどう見ても、S先生が苦しんでいるようにしか見えない。すごいよぉー! 僧侶がそういう領域を突破してはじめて、亡くなった方を向こうの世界へと送り出すことができる。これを引導と言う。

葬儀や先祖供養、あるいは法要などで、そんなことを繰り返していたら、亡くなった方の心身の状態がS先生の肉体に停滞し、それが原因で、S先生が病気になったりしないんだろうか・・・と、私は今回の事を通じて、そう気づいたのだ。

今回の事とは、先月(2017年11月)、3日間に渡って、突然、私に頭痛が起こり、最初の2日間は、珍しくも鼻血が出て止まらなかった・・・という、あの原因不明の例のことである。

それで、私は冒頭の「死者の思いがS先生の身体に現れた後、S先生ご自身が体調を崩されるようなことは、今までになかったのでしょうか?」と、S先生に、そうお聞きしてみた。

すると、S先生は、そういった事は1度もないという。S先生は、更に続けて、こうおっしゃっていた。

それが、いわゆる個人的な霊感などとの
相違点のひとつです。

永遠の仏陀は、この世界の目に見える者、
目に見えない者全ての存在を
悉(ことごと)く把握することができるのです。

一方、わたしは、ひたすら御本尊
(言い換えると永遠の仏陀)と
ひとつになる。

そのことにより、御本尊(仏陀)
という大安心の
境界の中に安住します。

そのことを基礎としているので、
病気の苦痛などの
霊の影響を受けることなく、
霊の状態が映し出されるのです。

このことは、一見矛盾しているように
感じられるかも知れませんが、
このようにイメージして
いただければと思います。

法華経とひとつになることによって、
清浄になったわたしの心身
神々映し出される

鏡にどんなに如実に映ったとしても
鏡自体は、決して侵されませんね。

そのように映っている時も、その後においても
わたしが侵されることはないのです。

合掌
S先生のお名前記す

冒頭の一節で、S先生はこうおっしゃた、「それが、いわゆる個人的な霊感などとの相違点のひとつです。」と。私はこの一言に衝撃を受けた。私は祈りをもっと極めた方がいいのかもしれないなぁーと、そう思ったのだ。人が亡くなる度に、私に頭痛が起こったり、今回みたいに鼻血まで出たのでは、私の身体がもたないからだ。勿論、それなりに面白くて楽しいこともある。でも、祈りに先はまだあるんだと、私は改めてそんな風にも思った。

そして、上記に「法華経とひとつになることによって、清浄になったわたしの心身神々映し出される。」とある。神と言わずに、「神々」と、複数形で言っている。しかも「神々」という風に、神と霊を区別して表現している。この事について、今し方S先生にお電話でお聞きしてみた。

私はS先生にこうお聞きしてみた、これまでにS先生の鏡に映し出されてきた神々は、どんな神々だったのでしょうか・・・と。すると、S先生は、メインインドの神様が多いとおっしゃっていた。日本で祀られている神様が映し出されることもあるという。その1柱に、天照大神様もおられたそうだ。

鏡に映し出される神々が、自ら名乗ることはないという。「じゃ、なんで天照大神様だとわかるの?」って話になる。でしょ? この辺りを今一度S先生にお聞きしてみたところ、エネルギーの大きさと質が違うという。この辺りのことは、世界三大霊訓シルバー・バーチも、そんなような事を言っていた。

エネルギーの大きさと質が、どのようにどう違うのか・・・というと、S先生の体感でわかってしまうのだという。あとは、S先生自らの勘だそうだ。勘で、あ、この神様は、日本のなんとかかんとかという神様だ・・・とか、あ、インドのなんとか神様だって、そんな感じに、体感と勘でわかってしまうのだという。

S先生のところにやってくる信者さんや相談者にご縁がある神々や霊が、S先生の鏡を通じて、おいでになるようだ。なので、S先生が、今日は誰それさんの霊を呼んじゃいましょうかね・・・とか、どこどこの神様に来てもらいましょうか・・・などと、そういうS先生の意識や感情、希望などは一切介入しないそうだ。S先生は、ただ一心に祈るだけ。ただそれだけ。なので、どんな神様やどんな霊が、S先生の鏡に映し出されるかは、唱題プラクティスを行ってみないと、わからないという。

S先生の祈りを通じて、霊は、やがて蓮華の上に乗って去っていく。私はそういう霊を、S先生との唱題プラクティスを通じて、目の当たりにしてきた。蓮華の上に乗る・・・ということは、成仏を意味する。蓮華は、泥がある池の中でもしっかりと根を伸ばし、泥に汚れることなく、美しい花が咲く。この事から、「どんなことがあっても、汚れた世界に染まることはない」という悟りの世界を象徴している。

(完)

 カテゴリー : 霊的世界 | 投稿日 : 2017年12月28日

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