【霊的世界53】 霊は目の前の僧侶に気づけるのか ~僧侶の声~   

前回、唱え方のところで「S先生(日蓮宗、ご住職、男性)は、意識や心を超えた世界から受信しているかのようなお声なのだ。」と書いた。ちょっとわかりづらかったかもしれないが、これは、「私」といういち個人を超えた世界とか、計り知れない、目には見えない世界から受信しているかのような声・・・という意味である。ハリウッド映画なんかのSF映画に出てくる、壮大で響きのいい宇宙人のような声・・・とは違う。かと言って、録音された人の音声を、最速で再生させたアリのような声とも違うのだ。人である。確かに人間の声なのだが、でも、そこに何かがある気がしてならない。その位にS先生は、神秘的とも言えるお声を出されるのだ。

S先生に2度目にお会いした時に、私は初めて本格的な唱題プラクティスをS先生から教えていただいた。

これがまた不思議なことに、私はその本格的な唱題プラクティスの中で、理解できないことが起こった。この時、自分の胸元(体表のアナーハタ・チャクラのあたり)が、突然、振動しはじめてしまったのだ。直径10センチ位の範囲に渡って、弱い振動だったが、細胞同士が小刻みにぶつかり合っている感じがしたのだ。しかも、何度も何度も・・・である。1回につき30分程度の唱題プラクティスを行い、その後15分程度の小休止が入る。その日はそれを4回繰り返した。その1回目がはじまって、10分するかしないか位で、その振動が起こったのだ。こういった振動は、初めてのことだったので、一体何事かと思った。その振動は、小休止の間もずっと続いた。結局、4回目の唱題プラクティスが終わっても、しばらくはずっとその振動が続いたのである。

こういう話をすると、「それって、ただ単に心臓がドキドキしてただけじゃないの?」と思うかもしれない(思わないかもしれないが・・・)。でも、それとは明らかに動きが違うのだ。

その時、家族も一緒だった。唱題プラクティスの小休止の時に、本堂からS先生が出て行かれた際、私は家族にそれとなく聞いてみた。私は自分の胸元に、直径10センチ位の円を描いて見せながら、「ねぇ、このあたり、なんか・・・、今変じゃない?」と、ヒソヒソ声で聞いてみた。でも、家族は全く何でもないと言ったのだ。「一時的なことかもしれなし・・・。ま、様子を見て、今は唱題プラクティスに集中すればいっかぁー・・・」と、私はそう思った。「気になるようなら、後でS先生に聞いてみればいいわけだし・・・」と、そんな風にも思った。結局、その振動は、はじまったら最後で、1回も止まることはなく、時間にしたら3時間以上も続いたのだ。

その振動が、一向に収まる気配がなかったので、それで私は、何回目かの小休止の時に、S先生にお聞きしてみた。すると、S先生は少しお考えになり、そうしてこんな風におっしゃった、そういうことが起こることもあると思いますよ、と。でも、S先生はそれ以上のことはおっしゃらなかった。

そもそも私がS先生の初めての唱題プラクティスの時に思ったのは、「S先生は、一体どこから声を出しているんだろう・・・」だった。もう、とにかく不思議で、不思議でしょうがなかったのだ。そんなことをお聞きしたところで、返ってくるお言葉は、声帯を振るわせてどうのこうの・・・といった、そういう生体学的なことを言われるかもしれないしなぁー・・・と思ったのだ。私は今、教えていただいている身。習いはじめた早々、あまりあれこれと聞かない方がいいよねぇー・・・とそうも思い、それで一旦はあきらめた。

ところが、その同じ日の、S先生の唱題プラクティスが2回目、3回目・・・と進んでいくうちに、それを知りたいという私の衝動に、増々拍車がかかっていった。自分の胸元の振動が一向に収まる様子がなかった・・・というのも理由の1つである。いよいよどうにもならなくなった。「今、お聞きしなかったらチャンスを逃す。今だ! 今!」と、S先生が本堂内で私の近くを歩かれたその時に、思いがピークに達した。

思い余った私は、その時「どこからお声を出しているんですか?」と聞けずに、「マイクを付けているんですか?」と、S先生にそうお聞きしてしまったのだ。「しまったぁー!」と思い、「そんなことを聞きたかったんじゃないでしょう?!」と、私は自分で自分にそう思った。S先生が私の質問の意図をくんでくれることを期待したが、的は大きく外れた。声の出どころと、マイクの有無とでは、えらい差だ。でも、それがその時の、私の精一杯の気持ちだった。ちなみに、唱題プラクティスの時、S先生はマイクをお付けにはなっていなかった。

冒頭の通りで、S先生がお唱えになるお声には、やはり何かがある! そう思うのは、どうやら私だけではなさそうだ。

のちに、何かのお話の流れでわかったのだが・・・、ある時S先生は、とある山寺へ行かれたことがあった。その時に、全く見知らぬ庶民が、S先生を見て近づいてきて、それで、祈っていただけないでしょうかと、お願いされたことがあったんだそうだ。それでS先生は、「はい、いいですよ!」とおっしゃり、それで、その人のために、南無妙法蓮華経をお唱えになったという。山寺の屋外で・・・である。それを聞いた私は、「え? いつもここ(S先生のお寺のこと)の本堂内で行われる唱題プラクティスの時と同じようにですか?」とお聞きしてみた。すると、S先生は「はい、そうです!」とおっしゃったのだ。私は、「えーーー!」と思った。

どういうことかというと、その方はS先生の唱題に驚いたんじゃないか・・・と思ったからだ。私はすごく興味を持ち、それでいてちょっと遠慮しながらも、S先生にこうお聞きしてみた、「その方、随分、驚かれている感じ・・・しませんでした?」と。すると、案の定で、「えぇ・・・、まぁー・・・、そう・・・ですねぇー・・・」と、S先生はお言葉を選びながら、とてもゆっくりとした口調で話してくださったのだ。それを聞いた私は、「やっぱりそうかぁー・・・」と思った。

それで、私はS先生に、こうもお聞きしてみた、「その時、周囲に人はいたのですか?」と。いたそうだ。S先生は得意になって、あれこれお話になったり、自慢話や、ましてやご自分の霊力のことなどをひけらかすような事は一切なさらない。聞けば教えてくれるが、でも返ってくるお言葉は上記のように、言葉を選びながら、ゆっくりと話される。そこを理解された上で、下りを読み進んでいただけるとありがたい。

その後のS先生のお話によると、やはり私が思った通りで、S先生がそこの山寺の屋外でお唱えになった声を聞きつけて、周囲にいた普通の人達が、次々とS先生の元に集まって来てしまったそうだ。S先生は、あっという間に、見知らぬ民たちに取り囲まれてしまったという。「ほーら、やっぱり・・・」と、私はそう思った。「そりゃ、そうでしょう、あの声だもん! みんな思うことはやっぱり一緒だわねぇー・・・」と、私はそう思い、とても深く関心した。

美しい声とか、迫力のある声とか、そういう域を超えているのだ。どうも、そういう感じがするのだ。S先生に出会ってから5年が過ぎたが、「どこから声を出しているんですか?」と、未だに聞けないでいる。私がモジモジ、モタモタしていたわけではなく、S先生にお会いすると、そういう思いすら「スパッ!」と切り落とされてしまって、覚えていないのだ。これもまた不思議なお話である。

唱題プラクティスの中で見せるS先生の様々なお姿は、前回のお話だけでは、ちょっとわかりづらかったかもしれない。S先生がおっしゃるには、唱題プラクティスの中で、亡くなった人の霊がS先生の身体におりてきても、S先生の意識がなくなることはないのだそうだ。本堂内のご宝前で、S先生がうずくまろうが、倒れようが、奇声を上げようが、全ての言動をS先生自らの意志で、やめさせることもできるのだという。

唱題プラクティスの最中に、S先生が本堂内を歩き回ることもあるのだが、傍から見たら、S先生が自らの意志で普通に歩き回っているとしか思えない。どこからどう見ても、S先生にしか見えないからだ。しかし、先ほどもお話したように、S先生の意志で歩いているのではないのだそうだ。歩かされている・・・という感覚はS先生にもわかる・・・ということである。この場合も同じで、S先生自らの意志で、その歩行を中断させることもできる・・・ということなのだそうだ。

霊がS先生の身体に入って来ても、S先生の意識が途絶えることはない。・・・ということは、S先生の身体に入って来た霊は、その肉体の持ち主がS先生であり、(その霊は)S先生の存在に気づいているんだろうか・・・と、私は、ふと、霊の気持ちを知りたくなった。先日、その事に気づいた私は、「何がわからないのかがわかった!」とそう思った。それで、急いでS先生に、夜お電話を差し上げたのだ。

その事をS先生にお聞きしてみたところ、S先生は、「うーん! そうですねぇー・・・」とおっしゃり、少し記憶を辿っているかのようだった。少しの間があってから、S先生は、いつものようにゆっくりとした、お優しい口調で、こうおっしゃった、「(霊は)気づいてないと思いますよぉー・・・」と。「(霊は)気にしていないというか、そういうことは意識してない感じですね。」と、S先生はそうおっしゃったのだ。「そもそも霊がそういうことに気づくのなら、霊の方から私(S先生)に話しかけてきてもいいわけですからねぇー・・・」と、S先生はそうもおっしゃっていた。

S先生がおっしゃるには、S先生ご自身は「鏡」なのだという。つまり、唱題プラクティスでも、お葬式や法事の時でも、そういった祈りの中で、S先生ご自身の身体に現れる霊的な現象は、霊の意識や気持ち、心といったそういうものを映し出しているにすぎないのだという。映し出すその「鏡」の役目を果たされているのが、S先生やS先生の身体である・・・ということなのである。

ここでの意味の「鏡」とは、ブレない意識であり、感情移入をしない心、あるいは統一された精神・・・ということのようである。このラインをしっかり保てていないと、例えば、どの霊が何をどう言っているのか・・・といったこと等も、(S先生が)わからなくなってしまうそうだ。私はこの時、S先生とお電話で40分ほどしゃべったのだが、話題が次々と展開され、私は必死になってメモをとった。

唱題プラクティスの中で見せるS先生の様々なお姿について、更なるS先生の心情を知ることができた。のちのメールのやり取りの中で・・・である。そして、どんな時にそういった霊的現象を、S先生自らのご意志で中断するのか・・・についても、次回お話したいと思う。

(完)

 カテゴリー : 霊的世界 | 投稿日 : 2017年3月23日

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