【霊的世界85】 引導 ~僧侶も一般人も出来るようになる方法とコツ~ 仏心・心得を極める!

S先生(日蓮宗・ご住職・男性)が、日蓮宗のお寺で本格的な祈りの修行(唱題プラクティス)をはじめられた時、お寺には、お弟子さんや信者さんたちが大勢おられたそうだ。

ゼロからのスタートだったので、S先生は、まだほんの小坊主さんだった。S先生は「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経・・・」と、来る日も来る日も、ただ一心に唱えたそうだ。完成された今のS先生しか知らない私にとっては、S先生がどんな小坊主さん時代を送られたのか・・・、私はかなり興味を持った。現在、S先生は独立されて、今のお寺のご住職の役職に就いておられる。

エドガー・ケイシー流で見ると、S先生は海王星出身者だ。この星は、非常に霊的な力を秘めた星と言われている。霊能者と言われている人は、この星の出身者が多い。S先生が同星の出身者だとわかった時、「やっぱりそうだったかぁー・・・」と思いつつ、私は激しく動揺した。

そして、本当の意味での引導がお出来になる僧侶は、現代では一握りの人だけだと言われている。S先生が、正にその中のお1人だとわかった時、「さすが海王星出身者は違う!」と、私はそうも思った。

それはそうと、S先生はこんな事もおっしゃっていた。

なにしろ最初は、ひたすら自行(じぎょう)
と言って、 自分自身の意識(心境)を
高めることばかりに没頭して
いましたので・・・。

それから引導できるようになった
と言っても、「私が、やっているのだ」という
思いはないのです。
だからこそ引導できるのです。

もし「俺が、引導してやるのだ」
という思いでやろうとするなら、
決して引導は出来ないでしょう。

なぜなら「おれが、おれが・・・」という
がなくなるのが成仏の世界ですので・・・・。

もし導師が、「おれが・・・」という
思いでやっていたら、 いったい誰が
導かれるというのでしょう。

もし引導する者があるとすれば、
それは仏法そのものであり、
仏法と一体と成り得た場合において
のみなのです。

その場合、導師には、
おれが導いた、などという意識はなく
「(わたしという心身を通して)仏法が、
導いてくださった」 と思うものなのです。

このことは、どんなに修行の段階が
あがっても変わりません。

「俺が、俺が」の「我」が、頭をもたげてくると、引導は、もうその段階で出来なくなる・・・ということのようだ。

自我意識が入らずして三昧に入る・・・という厳格な修行を通過しないと、引導ができるようにはならないみたいだ。つまり、あーしたい、こうあってほしい・・・というような自分の思いが入らない、純然とした三昧でなければならない・・・という意味だ。

霊能力を身につけて、自分や他人を意図的に操作しようと思っている限り、引導ができるようにはならないという。例え、それで一旦は引導が出来るようになっても、それを「俺がやってやったんだ!」というような自惚れが生じた途端、そういった宇宙的なエネルギーは、途絶えてしまうものらしい。そしてこの事に気づいている人は、非常に少ないという。

本人は、「自分は三昧の境地に入った」と思っていても、実際には、本人の思いが入ってしまっていることがあるそうだ。この場合、その人の思いが反映されてしまうので、気をつけなければならない。この辺りの見極めが、自分自身で出来る人は非常に少ないという。

S先生のお話によると、霊的世界に到達している僧侶、つまり引導を完全にマスターしている僧侶は、相手の祈りを見ただけで、その人が三昧の境地に到達しているかどうかがわかるそうだ。

「よし、今の祈りは合格!」とか、「あ、それは違う。今の祈りには微妙に雑念が入っている!」とかね、「南無妙法蓮華経・・・」と1回唱える度に、その都度立ち止まって教えてくれるわけではない。なので、最初のうちは、本人はこの祈りでいいのか、悪いのか、さっぱり見当がつかない。

S先生は、1日4時間、みっちり祈りの練習をされたそうだ。「ビッシ!」っと正座して、合掌し、ひたすら同じことを唱え続けるのだ。すぐ目の前に師匠がついているので、一切気を抜けなったという。

なので、祈りが終わると、S先生は、毎回汗びっしょりになったそうだ。それこそ頭からポッポ、ポッポ・・・と湯気が立ったと、手で頭に三角帽子を作って、ジェスチャー混じりでS先生は私にそう話してくださった。私は思わず顔を背けて、クスクスと笑ってしまった(そりゃ、笑うよぉー! だってS先生はちっとも笑わず、終始真顔でお話されるんだもん!)。

それと、あまり長時間、合掌の姿勢を取っていると、肩関節を痛めることもあるので、そういう時は、無理に合掌の姿勢をとらなくてもいいそうだ。私自身、一時、バスタブのお湯を、桶で汲み出せなくなってしまった時期があった。いきなり肩関節に痛みが走り、ただもう痛くて、痛くて・・・。本当につらい時期もあった。

現在のS先生の唱題プラクティスのご様子をお聞きしてみた。すると、S先生は、唱題の幅が広がりましたねぇー・・・とおっしゃっていた。唱題の中で、霊が色んな姿形、意識や感情などを現してくるそうだ。そういった霊的世界の幅が更に増えた・・・と言う意味である。

祈りには未知の世界がある。そしてコツをつかめば、誰もが到達できる。そんな印象を受けた。

(完)

 カテゴリー : 霊的世界 | 投稿日 : 2018年4月21日

【広 告 (Advertisements)】