【霊的世界86】 引導新時代 ~僧侶主導から参列者主導へとシフトする~ 僧侶・トップリーダーの流儀

先々月(2018年3月中旬頃)に、S先生(日蓮宗・ご住職・男性)は、お電話で私にこうおっしゃっていた、引導は、お葬式や法要を執り行う僧侶だけが出来るようになるのではなく、むしろ残されたご遺族の方々が、出来るようになることが好ましいと。僧侶は、その状態や様子を見守る位の立ち位置でいいと、そうもおっしゃっていた。

まさかS先生が、そんな事をおっしゃるとは思ってもいなかったので、私は、「え、何それ?」と思った。神々の力でも働かない限り、急な葬儀で、一般人がいきなり合掌しても、引導ができるはずがない。なので、引導は、そもそも僧侶の役目だと、私は何となくそう思っていた。

霊を呼び寄せたり、霊を成仏させて行くべき世界へと送り出す事(引導)に関して、S先生はかつてこうおっしゃっていた、「私じゃない、私の力じゃない・・・」って。「海王星出身者だから、私がすごい・・・ということではなく、唱題プラクティスがすごいんです。」と、S先生はそうもおっしゃっていた。ある時、S先生はこんな事もおっしゃっていた、「霊を成仏させたのも私じゃない。」と。

「そんなことを言ったってね、お寺の本堂内のご宝前で、S先生が合掌されて祈ったから、だから霊が成仏したかどうかもわかり、本堂内に霊だっておいでになったんでしょう? じゃ、やっぱりS先生が霊を呼んだんですよ!」と、ホントそう言いたくなる。傍から見たら確かにそうなので、そう思われても致し方ない。

でも、どうもそうじゃない感じだ。「私は、今、祈っている・・・」という意識すらなくなってしまう。でもだからと言って、気絶するわけではない。恐らく、この時に霊の道が開くのかもしれない。いわゆる霊眼が開く・・・とでもいうか。

何が言いたいかというと、S先生と一緒に祈るだけで、たったそれだけで、そこに居合わせたご遺族や参列者全てが、必要に応じて引導ができるようになる。いずれそういう方向にいく・・・ということなのかもしれない。

ここでの意味の引導ができるようになるとは、他界された方の心の状態を知ったり、成仏がどこまで進んだのか・・・などを、ご遺族や参列者全員が、体感としてわかる・・・ということ。正に、S先生が、前代未聞のその道を、今切り開いているのかもしれない。

ま、ま、まさか!

これまでの唱題プラクティスを通じて、S先生は、その核心に迫る何かがあったのかもしれない・・・と、私はそうも思った。あるいは既に、神々からS先生に、何らかの通信でも入ったんじゃないか・・・と思ったりもした。

S先生は、以前と比べて、ご自身の唱題プラクティスの幅が広がってきていると、そうもおっしゃっていた。進化し続けているという事なのでしょう。でも、引導は唱題プラクティスの一部に過ぎない。どうもその先があるようだ。

S先生と一緒に祈っただけで、それこそ本番の葬儀で、普段大して祈ったことがない人がすんなり引導ができるのだろうか・・・。数日間考えた。でも、やはりそうとしか思えず、先々月19日(2018年3月)の晩、私は、思い切ってS先生にお電話してみた。

なんと驚いたことに、私が思った通りだった。「こりゃ、大スクープだ!」と思った。そう思ったのも束の間で、そういったことは、仏教の書物に書いてあるそうだ。

なので、私は、更にS先生にこうお聞きしてみた、「S先生が行う唱題プラクティスを通じて、そういった核心に迫る体感が、S先生の身体の中で起こったのですか?」と。

どういう事かというと、S先生と一緒に祈ったら、その場に居合わせた人全員が、他界されたその方の今の状態を知れたり、成仏の過程を(その場に居合わせた参列者全員が)体感できる・・・という事を、S先生が自ら体験されたのですか?・・・という意味である。

なんと、S先生は、私のその問いに対し、「はい、そうです。そういうことが実際にありましたよ。」と、あっさりと、そうおっしゃったのだ。

私は、「やっぱりそういうことだったのかぁー・・・」と思い、驚きのあまり言葉を失ってしまった。

やはり神々は、S先生を通じて光線(恩寵の光)をここ地上に降ろすつもりなんじゃないか・・・と、私はそう思ったりもした。

S先生は、それが光線かどうかはわからないですが・・・とおっしゃりながらも、S先生と一緒に祈られた方で、既に引導をされている参列者(一般人)がいるという。S先生が年に1度しか行わないある方の法要の席で、参列されたご遺族が、他界したその方の今の状態などを、既に体感しているそうだ。

そのことを知った私は、「そりゃ、すごいやー! さすがS先生!」と、私はそんな風にも思った。

こういった引導は、明治維新よりも前から、脈々と受け継がれてきた。引導がお出来になる僧侶は、一握りながらも、まだ日本に存在する。明治維新から今年でおよそ150年。この150年の間に、引導がお出来になる僧侶は、次々と姿を消していった。

全盛期の頃のように、本来の実力が備わった僧侶たちが、今後育つことは極めて難しいと思われる。時代の流れや背景が変わったことで、実力派僧侶の消滅振りはとても著しい。

だからと言って、僧侶はもう必要ない・・・ということではない。

これまでの引導が、僧侶主導から参列者主導へとシフトしていく・・・ということだと思われる。つまり、立ち位置が変わるからこそ、逆に参列者の引導をきちんと見守れる僧侶が必要になる・・・ということ。そういう時代が、もうはじまっている。S先生のお話をお聞きする限り、どうもそんな感じだ。

誤解のないようにここでもう一度お話するが、私は、S先生のお寺の檀家さんではない。専属の信者さんでもない。そもそも私のご先祖様は、先祖代々ずっと禅宗。S先生は日蓮宗。

新たな展開があれば、引き続きここでまたお話していきたいと思う。

最後になりますが、S先生が行う引導は、一般の僧侶が葬儀の席で読み上げる引導文とは全く異なります。

(完)

 カテゴリー : 霊的世界 | 投稿日 : 2018年5月4日

【広 告 (Advertisements)】