「このお寺は、一体何をやってるんだ!」と、思う余裕も暇もなかった。ある時、お寺の本堂内で行われた唱題プラクティスの最中に、S先生(日蓮宗・ご住職・男性)のご容態が徐々に変わっていった。S先生はご宝前でうずくまってしまったのだ。ご宝前とは、神仏の前を尊んでいう言葉なのだが、ここでの意味は、お寺の本堂内に、丁重に据え置かれたマンダラや日蓮大聖人の像、お花やろうそく、お線香立てや鈴(りん)、あるいはお菓子などもお供えされる場所の、手前とか正面のことである。
このような祈り(唱題プラクティスのこと)の場合、僧侶はご宝前で「ビッシ!」と正座をされ、合掌をされたままひたすら祈り続け、微動だにすることはないように思うかもしれないが、時として色んなケースがあるのだ。
そのご宝前で、祈りの最中に、突然、崩れるようにうずくまってしまったS先生のお姿を初めて目にした時、「なんだか訳わからない霊が来たぞ!」という意味で、「来たぞ、来たぞ、来たぁーーー!」と、私はそう思った。
とにかく、S先生と一緒に唱題プラクティスを行うと、これまでお話してきた通りで、本当に次々と色んなことが起こるのだ。唱題プラクティスとは、「南無妙法蓮華経」と、声に出して一心に唱え続けること。そう、ただそれだけなのだ。勿論、開経偈(かいきょうげ)などを、本格的な読経がはじまる前に、本堂内でS先生と一緒に唱えることもある。
余談になるが、S先生の開経偈は、唱え方が結構カッコイイのだ。口先で唱えるのではなく、かといって口の中だけで唱えている感じでもないのだ。難しい定義はともかく、S先生は、意識や心を超えた世界から受信しているかのようなお声なのだ。本当に不思議である。
明らかに、S先生の唱題プラクティスは異質だし、やってることはシャーマンと一緒だと、私は後にそう思うようにもなった。そもそも私みたいな通りすがりの素人に、日蓮宗の真髄とも言える、よくあんなにもすごい祈りを教えてくださったものだと、私はとても不思議に思う。あれだけの唱題プラクティスを展開できるのなら、もうそれは立派な密教だし、秘教だとも思った。
S先生と出会う前のことだが、HA医学博士の紹介でシーターヒーリングのT先生に会う機会に恵まれた。T先生はちょっとした話の流れで、私にこう言っていた、シャーマンとは、相手の病気を一旦自分が受け取って、それで神を(自分に)下ろしてその病気を治すのだと。例えば、相手が癌患者さんだったら、その痛みや苦しみなどをそっくりそのまま自分が受け取る・・・という事のようだ。それを知った私は、「そりゃシャーマンは、えらく大変な仕事だぁー・・・」と思った。僧侶とシャーマンの違いや定義づけが、ここでの目的ではないので、そういったお話は省略するが、いずれにせよ、日本にここまで祈りを極めた僧侶さまがおられた・・・という事は、ただただもう、驚くばかりである。
ここからは、冒頭の話題の続きになる。
お寺の本堂内でいつもの唱題プラクティスがはじまり、S先生と一緒に、私は慣れ親しんだ「南無妙法蓮華経」を繰り返し唱えていた。開始からわずか10分か、15分位経過した段階で、S先生のお声が、段々かすれていき、途切れ途切れになっていき、いつしか呼吸も微かに乱れはじめ・・・、遂にS先生は、全く唱えられなくなってしまったのだ。その場に居合わせた他の参加者や私の身体にも、特に異変が現れることはなかった。その後、その祈りの中でS先生は、ご宝前でとうとううずくまってしまったのだ。いつもとは全く異なるご様子に、私は薄目でS先生のご容態を見守りながら、一心に唱え続けた。
その時、S先生は、ご自分の頭の中が、悶々としていたそうだ。誰かの闇のような波動と、耐えがたい深い苦しみが、S先生のご身体の中に現れたようだった。
「それって、もしかして憑依なんじゃない?」と思うかもしれないが、憑依とは違うのだと、S先生は後にそう語っていた。S先生は「憑依」というお言葉をあまり好まない。好き、嫌いという問題ではなく、どちらかというと、相応しくないとお考えのようなのだ。S先生のお話によると、憑依ではなく、霊が遺族などを頼って来ているのだという。
それはそうと、S先生の頭の中が悶々として、うずくまってしまったその後、S先生は一旦は何とか持ちこたえたものの、力尽きて、今度は仰向けに倒れてしまったのだ。そう、(お寺の本堂内の)ご宝前で・・・である。S先生は、もう唱えるどころではなかった。呼吸を制御しながらも、S先生が何かに必死に耐えているように見えた。でも、それ以上の事は、私にはわからなかった。
しばらくそういう状態が続いた後、今度は、S先生が、突然、頭のてっぺんから抜け出たかのような甲高い奇声を、何度となく上げはじめたのだ。S先生は職業柄上、普段からお経を唱えておられることもあり、声がすごくよく通る。そんなS先生が出す奇声は、ホント半端じゃない! なんとなくわかるでしょう? すごいよー! 本当に。
後に知ったのだが、そんな光景を目の当たりにして、祈りを途中で止めてしまう参加者もいるそうだ。恐らく、逃げ出す人もいるのかもしれない。でも、私は、S先生が今そこで、必死に何かと闘っているのに、そんなS先生を1人残して逃げ出すなんて、とてもじゃないけど私にはできないと思った。その時のとっさの判断で、とにかく祈り続けるしかないと思ったのだ。S先生が祈れない分、私が祈るしかないと、そう理解したのだ。
その時の奇声は、まるで龍が天空へと高く立ち上り、口から血を流して、苦しくって苦しくって、頭を八の字に、何度も何度も大きく振り回しているかのようだった。その激しい奇声は、本堂内でしばらく続いた。
あまりの激しさが続いたため、S先生が死んでしまうのではないか・・・と思うほどだった。祈っている間中は、S先生が誰と、どんな風に闘っているのか・・・とか、どのような過程を経て、(霊が)成仏していったのかは、外から見ただけではわからない。少なくとも、私にはそういった領域に入り込めるほどの実力を、持ち合わせてはいなかった。S先生がトランス状態から目覚めて、そしてS先生からのご説明があって初めて、唱題プラクティスの本当の中身がわかるのだ。
そもそもS先生にすら、その日の唱題プラクティスが、どういう展開になるのかはわからないそうだ。つまり、S先生ご自身が、「じゃ、今日は誰それさんの霊を呼びましょうかねぇ?」とか言って、霊と関わり合っているわけではないのだ。S先生がわかるのは、今現在、S先生の身体の中で起こっている事だけである。どうも、そんな感じなのだ。
S先生がその唱題プラクティスの中で、ご自分の本来のお声を少しずつ取り戻してきた時、「よかったぁー! S先生が戻って来たぁーーー!」と思い、私は自分のあふれる涙をぬぐいながら、必死で「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経・・・」と、繰り返し唱え続けた。S先生の唱題プラクティスは、毎回、本当に驚くばかりである。
唱題プラクティスが終わると、S先生は、誰を頼ってやって来た霊なのかを、すぐにお答えになる。つまり、唱題プラクティスの参加者が複数であっても、個人を特定できるのだ。これこれしかじかな霊が頼って来ている・・・とわかるだけでも、すごい事だと思うのだが、S先生はその人が具体的にどういう亡くなり方をした方なのか・・・とか、性別、そして死後どんな領域で、どんな境地でいるのか・・・までもわかってしまうのだ。正しく神業としか言いようがない。
さて、問題は、その龍の正体とは、一体誰のことだったのか・・・だ。その時の唱題プラクティスが終わると、S先生は、一緒に祈っていた参加者のMさんに向かって、すぐに問いかけがはじまった。「首ですねぇ~・・・。首とか、喉とか、胸ですねぇ~・・・。かなり厳しい状況で亡くなられた方です・・・」と、S先生はそんな風に、最初そうおっしゃったのだ。
S先生が「首・・・」とおっしゃったので、私は「自ら紐をかけて亡くなった?」と思ってしまった。参加者Mさんもそう思ったみたいで、「首ではないのですが・・・、親族で自ら入水して亡くなったのがいるのですが・・・」と答えた。すると、S先生は、自らが人生の幕を下ろした・・・ということではない・・・というようなことをおっしゃった。S先生はとてもゆっくりとした優しい口調で、言葉を選ぶように、とても慎重にお答えになった。
するとMさんが「溺死したのがいるのですが・・・」と言うと、S先生は「水死では・・・ないと・・・思いますよぉー・・・」と、そうおっしゃった。Mさんはあれこれと考えている様子だった。その間、しばらく沈黙が続いたので、「胸なら、呼吸器系だから、肺がんかなぁ~?」と私はそう思い、それとなくS先生にお聞きしてみたところ、S先生は、「肺がん・・・では・・・、ないですねぇー・・・」とおっしゃったのだ。
その後、Mさんは、ふと思い出したかのように、こう切り出したのだ、「私の親戚で、ジフテリアで亡くなったのがいるのですが・・・」と。すると、S先生は、「そうです! そのお方です!」と、きっぱりとそう言い切ったのだ。その方が亡くなったのは、半世紀以上も前のことだったという。龍の正体とは、どうやらそのお方だ・・・ということがわかった。
ジフテリアの症状をよくわかっていなかった私は、その後、家に帰って来てからインターネットで調べてみたところ、確かに、S先生のおっしゃっていた症状と合致していた。ジフテリアの現れ方として、喉や鼻に菌が感染して、鼻水(血が混じった粘液膿性)、高熱、喉の痛み、犬が吠えるような咳などが出てくるそうだ。牛の首のように、首が大きく腫れてくるのが特徴でもあるという。喉に偽膜といって、白い膜ができて、窒息することもあり、菌が出す毒素によって、心筋梗塞や神経麻痺を起こすこともあるのだそうだ。
その後も唱題プラクティスは続いているが、なかなか成仏までは行き届いていないのが現状のようである。
(完)