【霊的世界82】 僧侶の降霊と霊媒師の降霊 ~引導~ 霊が人間の肉体に入り込むと人間の意識は途絶える?

S先生(日蓮宗・ご住職・男性)は、ある日突然、霊的現象に遭遇したそうだ。ここでの意味の霊的現象とは、引導のことである。引導とは、僧侶が祈ることによって、(僧侶が)妙法と一体になり、その力によって亡くなった方が静かに癒され、ゆっくりと安心感を取り戻し、そして向こうの世界へと送り出すことである。また僧侶自身が、祈りの中でその事を実体験することである。

S先生のお話によると、妙法とは、わかりやすくいうと、お釈迦様の命だそうだ。(お釈迦様の命そのものなのだという。

引導について、ちょっとわかりづらいと思うので、もう一度ここでお話することにする。亡くなった方のエネルギーが、祈ることによってS先生の身体の中で、ひとつの物語や人生の走馬燈のように繰り広げられる。

人はこれを憑依と言うかもしれない。でも、S先生がおっしゃるには、憑依とはちょっと違うそうだ。S先生の場合、霊がご自分の身体の中に入ってきても、S先生の意識が途絶えることはないという。

S先生のお話によると、供養で一番大変なのは、戦場で亡くなった方だという。すさまじい心情や感情、痛みや苦しみを抱えている場合が多いそうだ。その時に伴うその方の恐怖や後のトラウマ、あるいは怒りの感情などが、S先生の身体の中で起こる・・・ということである。

お寺の本堂内でS先生と一緒に祈っていると、S先生の声質が変わってくるので、それで「あ、(霊が)来たぞ、来たぞ、来たぁー!」とわかる。最初の頃は、私はちっともわからなかったが、慣れてくると、霊がおいでになったのがわかるようになる。

その霊が私に危害を加えるわけではないので、大して怖いとは思わない。ただ、見えないものを見ようとする意識が働くので、ついつい(私の)目がキョロキョロしてしまう。まさに怖いもの見たさだ。

ヨガ行者の場合、意識を集中すると、内側の身体(霊)が見えることがあると聞いたことがある。S先生の場合、見えるのではなく、ご自身の身体の中で全てを感じ取る・・・ということのようだ。

S先生が力尽きた感じになり、祈りの中で倒れてしまったことがある。お寺の本堂内で、S先生が本当に倒れてしまって、その場にうずくまってしまった・・・という意味である。「あれ?  S先生の祈りによってもたらされる霊的現象は憑依とは違うから、S先生の意識は無くならないんじゃなかったの?」と思うかもしれない。

終始、S先生の意識は決して無くなることはないそうだ。S先生が祈りの途中で、倒れる、うずくまる・・・といったことは、その霊がS先生の身体を通じて、思うがままに表現することもある・・・という意味である。

霊によっては、悲鳴を上げる霊もいる。S先生の肉体を通じて悲鳴が上がるので、本質的な声自体はS先生の声になる。

S先生のお話によると、亡くなられた方の姿勢や動作、表情の特徴はある程度わかるが、メタボメタボリックシンドローム)かどうかまではわからないという。S先生は、例えば心臓を悪くして亡くなったとか、原因は恐らく肺の病気だったと思いますよ・・・とかね、具体的にそうおっしゃることもある。そして現実の世界において、その方が亡くなった原因と本当に一致する。この事から、その方の生前の体型までおわかりになっているんじゃないかと、私は何となくそう思っていた。でも実際はそうじゃなかった。ちなみに日本男性の約3割、女性の約2割が肥満だそうだ(厚生労働省 平成27年国民健康・栄養調査報告)。

心の憂いや悩みを持っていたことがわかり、戦場でこの世を去った兵士などの生き方や亡くなり方まで現されることもあるという。

驚くかもしれないが、極めつけはこれだ。医学的に性別の判断がしにくい時期の胎児であったとしても、その胎児が流産などでこの世を去った場合、祈りを通じて、その胎児の性別までS先生にはわかることがあるそうだ。土石流女児のあの一件がその一例である。

そういった体験がS先生の身体の中で起こった後、その霊はどうなるのか・・・だが。全ては妙法の基に起こることなので、その妙法に守られながら、事が進んでいく・・・どうもそんな感じだ。

S先生は見るのではく、体感する。全てがS先生の身体の中で起こるのだ。亡くなった人の衝動をまともに受けるわけだから、それが原因で、S先生が体調を崩されることはないんだろうか・・・と、私はふと思った。このことをS先生にお聞きしてみた。すると、S先生は、それはないですと、そうおっしゃっていた。

なので、私は更に、S先生にこんな事をお聞きしてみた、その領域に確実に到達する以前は(今ほどの実力がなかった時・・・という意味)、祈りを通じて、霊のせいでS先生ご自身が、体調を崩されたことはなかったのでしょうか・・・と。すると、S先生からとても興味深いお返事をいただいた。以下がその全文である。

それは、なかったのです。
何故ならその時点では、霊的なことが
映し出されることが、
ほとんどなかったからです。
あったとしても僅かな情報に
過ぎない。

まずは、御本尊(永遠の仏陀)と
一体となることのみを目指します。
すると極めて安定した状態に包まれ、
その基礎の上に少しずつ展開してゆくもの
なのです。ですから安心して
取り組むことができるのです。

たぶん、よくある霊感を磨く
というような修行だと、
こういう訳にはゆかず、
時に過酷なものに遭遇してしまう
ということが、あるのではないかと
思います。

合掌
S先生のお名前ここに記す

この事に関連したお話だが、私はあるテレビ番組で、シャーマンになるためのドキュメンターを見たことがあった。その番組によると、霊を自分の身体に降ろすのに、慣れないうちは霊媒師(イタコ)はゲロゲロと吐くそうだ。そのドキュメンタリーの中で、街中を普通に歩いていた男の子が、いきなり吐いたのだ。どうしたんだろう・・・と私は思い、息を呑んで見守った。その時のナレーションで、そういった症状(ゲロゲロのこと)が身体に現れると、ようやく霊媒師として一人前の道を歩きはじめた・・・とみなされると言っていた。その道を目指す者にとっては、そのゲロゲロは喜ばしいことのようだ。でも本人は常にうつむき加減で、なんだかとても辛そうだったのを、私は今でも覚えている。

しかし、S先生にはそういった過程は一切なかった・・・ということである。

時に過酷なものに遭遇してしまう・・・と、S先生は上記のご回答の中で、そうおっしゃっている。過酷なものとは、低級霊とか、悪霊とか、あるいは知恵のついた宇宙人のことなのだろうか・・・。あるいはレプ(レプティリアン)やドラコ(ドラコ二アン)のことなのだろうか。

「宇宙人? そんなのいるわけないじゃん!」って思うかもしれないが、世界三大霊訓シルバー・バーチは、言葉を選びながらも慎重に、宇宙人はいると、はっきりそう言っている。

S先生は、基本的にあまり霊的なお話はされない。お聞きすれば、多少教えてはくれるが、目に見えない世界のことを誤解がないように説明するには、一筋縄ではいなかい。慎重にならざるを得ない・・・ということなのかもしれない。

S先生は、今後一体何を語ってくださるのか・・・。時に過酷なものに遭遇してしまう・・・という事について、S先生にもう少しお話を伺ってみた。次回はそのことについてお話したいと思う。

S先生とのメールや電話などのやり取りを続けていく中で、可憐なんだけど、でもなんか美しい・・・というようなエネルギーを、私はなぜか感じるようになった。そう、何かが可憐で美しい・・・。不思議だなぁー・・・と思った。

(完)

 カテゴリー : 霊的世界 | 投稿日 : 2018年3月22日

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