文字をよ~く見ると、仏になると書いて、成仏と読む。成仏とは、『これまで持っていた迷いを離れ、悪業、トラウマ・・・等から解放されること』なのだそうだ。そういった事を通過すると、今度は、【ゆるぎない平安と魂の躍動、覚醒に至る】のだそうだ。通常、人生の中で、一瞬でもそのような状態をかすめたならば、素晴らしいと思いますと、そうもS先生(日蓮宗・ご住職)はおっしゃっていた。
苦悩から解放された状態とは、上記の前半部分である『 』内のことを体験することなのだが、しかし、これだとまだ途中段階になるので、「成仏した!」ということにはならないようだ。
ただ、後半部分の【 】内のことが起こってはじめて、「成仏した!」ということになると、殆どの人にとって、それはとても難しく、遠い世界の話になるので、「私たちは関係ないわ!」ということになってしまう。なので、そこまで行かなくても、ある程度のところで「成仏した!」と(世間一般ではそのように)言うようになったのも理解できます、とS先生はそうおっしゃっていた。
S先生のお寺では、<差し当たっての苦しみを離れ、満ち足りている魂の状態>を、一応の成仏と言っているそうだ。そして、さらにその先がある・・・、と常々おっしゃっているのだという。つまり、その後に起こる【ゆるぎない平安と魂の躍動、覚醒に至る】・・・ということである。
例えば、突然の事故による死亡の苦痛、無念さ、或は、そもそも死んだことを自覚できるかどうか・・・など、そういった亡くなり方をした場合、通常に比べて成仏はかなり難しいそうだ。相当の癒しが必要になると、S先生はそうもおっしゃっていた。S先生のお寺でこれまでに供養を行ってきて、かなりひどい困難な状態に陥っていた魂は本当に多かったそうだ。普通の生活をしている人々には、なかなか理解できるものではない・・・それくらいに供養が大変な場合が多かったそうだ。しかし、だからと言って、絶対に成仏できない・・・ということはなかったと、s先生はそうもおっしゃっていた。
このことからもわかるように、私の睡眠時の夢に、その男性の思いが反映されていたかもしれないが、ただ、その男性が亡くなってもう既に5年以上が経過しているからと言って、5年も経ったんだから、もう大丈夫だ・・・とか、まだダメだ・・・とか、そのように時間で成仏の判断はできない・・・ということなのである。つまり、もっと言うと・・・、実際に供養を行ってみないと、亡くなったその人の状態はわからない・・・ということなのである。
(続く)