私はS先生(日蓮宗・ご住職・男性)にその動画をお送りした。その際に、そのような体験について、私は2つのことをS先生にお聞きしてみた。
- 彼女のような体験はあり得ると、私は何となくそう思ったのですが、S先生はどう思われますか?
- 彼女が、もしあのまま向こうの世界へ行ってしまったとしたら・・・、あるいは彼女が仏教徒だったら・・・という設定でのお話ですが・・・。彼女の場合、肉体から離れた後、とても心が満たされているようだったので、こういう人の場合、お坊さんの引導(いんどう)というものは、必要ないんじゃないか・・・って思ったのですが、S先生はどう思われますか?
引導とは、わかりやすくいうと、他界された人が、心安らかに向こうの世界に行けるように、僧侶の祈り(妙法)によって導かれること。この場合、葬儀や法要を通じて、僧侶が霊的存在との対話が出来ることが前提になる。高度な技術と究極的な祈りが必要になる。現代の日本において、この引導の完成者は、非常に少ないと言われている。
上記2つの質問に対して、私はS先生からご回答を得ることが出来た。
1.について、S先生は、
「これに似た体験もよく聞きます。もちろん(こういう体験は)あり得ることです。」
と、そうおっしゃった。「やっぱりそうだったんだぁー・・・」と、私はそう思った。
2.については、S先生はこんな風におっしゃった、彼女は、役目があってこの世に戻ったのだと。普通の人達が考える善悪を超えた世界があり、その善悪を超えた世界こそが、本来の姿である・・・ということを伝えるために。そして人々が、取るに足りないことに執着して、そのためにどれだけ争いや悲しみが絶えないか・・・ということに気づかせるために・・・である。
S先生のお言葉は、更にこう続いた、
「それから彼女自身にとっても、この世に戻ってくることに意味がありますね。この世にこそあの世の感覚をもたらす、ということが生きる意味であり、実践すべきことだからです。あのままあの世に行ってしまったのでは、意味がないです。
そうですね。(この女性の場合、)引導は必要ないかも知れませんね。それよりも真の僧侶や菩薩心を持った人々と共に切磋琢磨しながら、より深く、より多くの人々を救って欲しいと思います。」
と。
彼女はクリスチャンだが、S先生のおっしゃる僧侶とは、聖職者という意味でお使いになったそうだ。魂の成長を自ら目指し、他をも導く人々・・・という意味。彼女自身が、既にそのような人なのではないでしょうかと、S先生はそうもおっしゃった。
そして、菩薩心とは、「自分のためだけでなく、他人や他の生物や環境のために行動する人」のことを言うそうだ。「(彼女があの動画の中で)私達が、普段いかに小さなことにこだわって、愛(慈悲)を失っているか。愛に気づくべき・・・」と言っている点は、仏教にも、キリスト教にも、共通の最重要なメッセージだと思います、とS先生はそうもおっしゃっていた。
彼女は、恐らく、比較的純粋な心を持っており、その純粋さに彼女自身も気づかなかったかも知れない。そういった体験をすることによって、そうした心の扉が開かれたのでしょう。しかし悪業の深い人などは、そういう訳にはいかないそうだ。地獄のような場所を体験する人も少なくないという。
但し、地獄のような所に行く人でさえも、その心の深いところには、愛や慈悲に満ちた心が存在している・・・とされているそうだ。仏教では、このことを「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」といい、生きとし生ける者は、すべて仏陀となる素質をもっている・・・と説かれているという。
(完)