【霊的世界48】 葬儀で笑いに耐える ~霊的な吐血~ トランス状態「僧侶」無事に戻る

「霊界の宣伝マン」と言われていた俳優の丹波哲郎さん(1922年7月17日ー2006年9月24日)が、享年84歳で亡くなられた時、朝のあるテレビ番組で、丹波さんの訃報と共に、その時の様子が伝えられた。

丹波さんは亡くなられるその日、美容室に行って、洗髪をしてもらっていたんだそうだ。その時に美容師さんに、「お湯加減はどうですか?」と聞かれたのだという。すると、丹波さんは、「あ、うん! 大丈夫だ。あ~、気持ちいいなぁ~・・・」と、そんな風に答えたそうだ。それで担当の美容師さんは、せっせといつものように洗髪を終えたそうだ。

ところが・・・だ。その時に、その美容師さんが「あれ・・・?! このお客さん、息してない!」と気づいたという。そりゃもう、店内は救急車を呼ぶなどして、とても大騒ぎになったようだ。結局、丹波さんは、息を吹き返すことなく、その洗髪中に逝ってしまった。

その後のお葬式に、スピリチュアル・カウンセラーの江原啓之さんも行かれたという。その時のお焼香の時に、ある人が、丹波哲郎さんが眠っている棺を前にして、「どうぞ、安らかにお眠りください・・・」と、そう言ったそうだ。

すると、ご自分の棺の上で、脚を組んで座っていた丹波哲郎さんが、「俺は寝てねぇーよ。ここにいるよ!」と言ったんだそうだ。現場でそれを見聞きしていた江原さんは、「プーッ!」と噴き出して、笑いそうになってしまったそうだ。葬儀の席なので、笑っちゃいけないと思い、江原さんは慌てて、ご自分の口をおさえたという。この事を、あるテレビ番組で江原さんが笑いながらそう言っていたのだ。霊が見えるって、こういうことなんだぁ~・・・と私は思った。すごいなぁ~・・・と、そうも思った。

世界三大霊訓の「シルバー・バーチ」はこう言っていた、人が亡くなると、なぜ(地上に残された人達が)泣くのかわからないと。「神との対話」という本を書いて世界的に大ブレイクした、ニール・ドナルド・ウォルシュさんのそのシリーズ本によると、人が死んで向こうの世界に行くと、今地上で生きている人が、向こうの世界でその死者を迎い入れることもあるのだそうだ。

ちょっとわかりづらいが、今ここ地上で生きている肉体の自分が、睡眠時の夢などで天界に行って死者を迎い入れる・・・というのではなく、恐らく潜在意識の自分か、もしくは無意識の自分が、天界で死者を迎い入れることもある・・・ということなのかもしれない。先の「海洋」の夢で、少しお話したように、潜在意識の自分も、無意識の自分も、同じ自分自身であって、自分自身の一部だという感覚も確かにあったのだ。でも、明らかに別の人格を持った自分だったのだ。そういうものとして、個々の自分がそのように認識していたのだ。「あれはただの夢でしょう?」と思うかもしれないが、夢の内容が少しずつ変わってきているので、今後も夢解釈を続けていく中で、明らかになることがあれば、夢解釈シリーズの方で、またお話したいと思う。

S先生(日蓮宗・ご住職・男性)は、かつてこんな事をおっしゃっていたことがあった、戦死された方は計り知れない思いを抱えている場合が多いので、一番先祖供養を行うのが大変だと。恐怖や飢え、痛み、苦しみ、悲しみのレベルが、ものすごく深いのだという。そういう人の先祖供養を行うと、とてつもないエネルギーが、S先生の身体の中に入ってくるようだ。「戦争が終わったのは、もう70年以上も前のことだし、70年も経てば、人の気持ちって、癒えるんじゃない? 癒えないの?」などと思うかもしれないが、死者の場合、時間が解決するわけではないようだ。

戦死した人のお話ではないが、S先生のお寺で、ある時いつもの唱題プラクティスを行っていたら、割り込むように、突然飛び込んできた霊がいたのだ。その場に居合わせた私は、事を全く理解できないまま、とにかく祈るしかないと思い、必死で「南無妙法蓮華経」と、繰り返し声に出して唱えたのだ。S先生はその途中で、「南無妙法蓮華経」と唱えるお声が、何度も何度も途切れては、必死で再び唱え続けられたのだ。S先生は、日蓮宗のマンダラをすぐ目の前にし、「ビシッ!」と正座をされたまま、微動だにしない。ご宝前で合掌をされたまま、祈りの姿勢を全く崩されることはなかった。そのお姿は、斜め後方から拝見していても、とても美しいと、私はそう思った。

その時のご様子だが・・・。どうもS先生の胸元辺りから、何かが口腔内へと上って来ているかのようだった。祈りが開始されてから10分かそこらで、その現象がはじまったのだ。いつもとご様子が違うので、なんか変だと思ったし、最初、何事かと思った。「なんか来たぞ!」と、そうも思った。霊のことである。S先生は、あたかも吐血されているかのようだった。1回や2回の吐血ならまだしも、その吐血が1時間以上も延々と繰り返されたのだ。通常、1回の唱題プラクティスで、1時間以上も続くことは殆どない。これはただ事ではないぞと、私はそうも思った。

S先生は、とにかく強い! 強い! いつ終わるかもわからないその祈り(唱題プラクティス)を中断されることなく、最後までやり通してしまったのだ。さぞ、お苦しかったでしょうと、私はそう思った。だから、私はS先生がトランス状態から戻られた時、ご無事で戻られたことの深い安堵感を噛みしめ、そしてその時の衝撃で、胸が一杯になってしまった。目はウルウルしていたが、「ここで泣いてはならぬ!」と自分に言い聞かせ、私はその時必死に耐えたのを、今でも覚えている。S先生ご自身も、もうこれで終わるか、もうこれで終わるか・・・と、祈りながらそう思ったそうだ。

「唱題プラクティス」と「先祖供養」は別のものだが、時として、このように一変することもあるのだ。そして、ここでもう1つ着目すべき点がある。それは祈り手の意識だ。S先生はこのように深いトランス状態になっても、意識は常にちゃんとあるのだ。一方、エドガー・ケイシーさんは、リーディングを取る時、意識がなくなってしまう。ケイシーさんはそのリーディング中にご自分で何をしゃべったのか、全く覚えていないのだ。チャネリング方法や形態は色々ある・・・ということを私は目の当たりにした。

結局、その吐血は、一体なんだったのか・・・だが。その唱題プラクティスが終わってからのS先生のお話によると、それはある魂(霊)の懺悔だったそうだ。すごいものを見たと、私はその時そう思った。

(完)

 カテゴリー : 霊的世界 | 投稿日 : 2016年12月20日

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